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広島新生学園

【東広島の企業紹介】児童養護施設 児童心理治療施設 「広島新生学園」

2021.11.23

東広島で就職ってどこですればいいの?そもそも東広島に就職できるところってあるの?
そんな学生の皆さんへ東広島の企業を紹介!

今回紹介する東広島の企業は
児童養護施設 児童心理治療施設
「広島新生学園」

スポーツ活動で、子どもの自立後押し

 広島市に原爆が投下された1945年の夏が、児童養護施設・広島新生学園が誕生する原点になった。あれから76年。これまでに約2100人の子どもたちを養護し、子どもたちの自立を支援してきた。歩みをたどりながら、学園に脈々と根付くDNAを紹介する。(日川剛伸)

原爆の地獄絵が施設誕生の原点 これまでに2100人を養護

広島新生学園1
創設時からスポーツ活動による集団指導に力を入れている。写真はソフトボールに取り組む小学生男子

 創設者は上栗(かみくり)頼登(1919~95年)。原爆投下のあの日、陸軍見習士官として広島市郊外から広島市内に入り、悲惨な地獄絵図を目の当たりにした。息絶えた母親のそばで泣いていた赤ん坊の口に、持っていた水筒の水をそっと含ませ、その場を立ち去ったとき、児童福祉に一生を捧げる決意を固めた、という。

 運命を変えることになったのは、その年の秋。南方の激戦地からの引き揚げ船が次々と広島の港(宇品)に入るようになった。両親を失い、港で路頭に迷う子どもたちの姿に心を突き動かされた、「俺が面倒を見る」。軍除隊退職金2000円を注ぎ込み、旧陸軍部隊の兵舎を借りて、新生学園の出発点となる引き揚げ孤児収容所を開設した。

 その後、原爆孤児や戦災浮浪孤児たちの養護も始め、収容施設の場所も広島市の宇品から草津、広島城近くの基町へと移転していった。1971年、広島市の都市計画に伴い、現在地の東広島市に移転。経営主体も県同胞援護財団から分離独立し、社会福祉法人・広島新生学園となった。

親から虐待受け入所

 1950年代までは、入所園児の多くは原爆孤児たちだったが、60年代に入ると、親から肉体的、精神的な虐待を受け、家庭に居場所がなくなって入所する子どもが主流を占めるようになった、という。

 創設当初から力を入れてきたのが、スポーツ活動による集団指導だ。西条町に移転した際には、敷地内に両翼80m、中堅90mの野球場と、屋外バレーボールコートを整備した。現在、学園には2歳から18歳までの男女73人が在籍しているが、園児たちは、各学校から下校後、男子はソフトボールや軟式野球を、女子はバレーボールを行うことを日課にしている。学園は、寝食と学校に通わせることだけではない、という強い思いがあるからだ。

 頼登氏の死後、95年に運営を引き継いだ長男の上栗哲男園長は「学園で高校までを過ごしても、高校卒業後、ほとんどの子は家に帰れません。家庭が崩壊して両親が離婚した挙げ句、それぞれに新しい家庭ができているからです。だから子どもたちの自立を促すことも、学園の大きな役割。そのためのスポーツ」と力を込める。

広島新生学園2
創設者の上栗頼登の銅像の横に立つ2代目園長の上栗哲男氏。創設者の思いは今も脈々と息づいている

家庭に近い施設に

 落ち着きがなく、自分のことしか考えなかった子どもたちが、チームプレーのスポーツを通して協調性を養い、ルールを守る大切さも分かってくる。周囲から認められることで、自信も芽生えてくる―。上栗園長によると、スポーツにはさまざまな効用があるという。

 「家庭に近い環境の養護施設」を貫いているのも特徴だ。その思いを実現するため、89年からいち早くスタッフにフレックスタイム制を導入。子どもたちの起床から就寝までを、同じスタッフで対応し、子どもたちが学校に通っている午前8時~午後4時まで休憩時間にしている。上栗園長は「朝のお母さんと夜のお母さんが違っていたら、子どもはどう思うでしょう。一緒の人であることが、子どもに安心感を与える」と話す。

 毎年、盆と正月には、多くの卒園者が、妻や子どもを伴って、学園に『里帰り』をする。現役の園児と卒園者による野球の紅白戦は恒例の行事になっている。今年の夏には創立当初に在籍した80歳代の卒園者も訪ねてきた。上栗園長は「立派になった卒園者が、『わが家』を訪れたときは、いつもうれしさでいっぱいになる。施設を運営するエネルギーの源にもなっている」と目を細める。

もっと知りたい! 広島新生学園のこと

「事業の原点忘れまい」 創設者思い刻む慰霊碑

 学園内の敷地内には、慰霊碑がある。中央の三角石はデルタ地帯の広島を表し、両脇は平和の象徴のハトの両翼を表現しているという。石碑には、原爆の投下で、息途絶えた母親の乳房にしがみつく幼子と、水を求めて川に手を伸ばす犠牲者たちを目にした創設者の痛恨の思いが碑文に刻まれている。

広島新生学園3
敷地内にある原爆犠牲者たちの慰霊碑

 児童養護の事業を始めるに至った原点を忘れてはならない、と石碑を建立。碑の前には原爆瓦を敷き詰め、敷石は原爆を直接浴びた御影石を使っている。原爆犠牲者や学園を卒園して亡くなった人、その親たちを慰霊対象にしている。毎年8月6日には、供養祭を行っている。

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昭和31年頃の原爆ドーム前の園児たち。施設が基町にあった時代は、毎年8月6日に平和記念公園内の慰霊碑に参拝していた

映画「原爆の子」のロケ地に 園児らエキストラで出演

 新藤兼人監督(故人)、乙羽信子(故人)主演で、原爆を取り上げた初の作品として高い評価を受けた映画「原爆の子」(1952年公開)。ロケ現場には、基町時代の広島新生学園が使われた。

 映画は、原爆の被災の頃に勤務していた幼稚園の教師(乙羽)が園児たちの消息を確認したい、と故郷広島に戻ってきた、というストーリー。広島新生学園の園児たちは、エキストラで出演、乙羽から浴衣をもらった、という。

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映画「原爆の子」のロケ風景

ギャンブル団体の寄付を受けない運営を貫く

 広島新生学園はギャンブル団体・企業からの寄付は一切受けない。入所する園児は、親の虐待を受けた子どもが大半。虐待のもとをたどれば、親の公営ギャンブル依存などが、家庭の崩壊を招く大きな原因の一つになっているからだ。

 「学園が寄付を受け付ければ、子どもたちはどう思うのか。ギャンブルを肯定する心が芽生え、大人になってから親と同じことを繰り返しかねない」と上栗哲男園長。「うちの卒園生は、ギャンブルで人生を棒に振ることはありません」と胸を張る。

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現在の広島新生学園の正門

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基町時代の施設

【沿革】

1945年10月 原爆孤児や引き揚げ孤児などの収容保護を目的に、広島市南区(現)の陸軍の兵舎の一部を借り、事業を開始
1945年12月 戦災援護会広島支部(現県同胞援護財団)の経営に
1946年 4月 広島市西区草津新町(現)に移転
1947年 4月 広島市中区基町(現)の旧陸軍野砲部隊跡に移転
1971年 4月 現在地の東広島市西条町に移転
1971年10月 社会福祉法人・広島新生学園の経営になる
2018年 4月 園舎を全面改装、児童心理治療施設を併設

※プレスネット2021年11月25日号より掲載

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投稿者名: プレスネット

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