東広島で就職ってどこですればいいの?そもそも東広島に就職できるところってあるの?
そんな学生の皆さんへ東広島の企業を紹介!
今回紹介する東広島の企業は
創業90年。地域に選ばれる会社に
「芸陽バス株式会社」
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今年1月に創業90周年を迎えた乗合・貸切バス事業者。
2019年は約120台の車両で年間240万人を輸送した。昭和、平成、令和と3つの時代にまたがり市民の主要な交通手段として、地域に密着した展開を続けてきた。
芸陽バスは、昭和恐慌の真っただ中だった1931年、芸陽自動車として誕生した。
戦後、高度経済成長を背景にした車両の進化や道路整備を追い風に、50年代後半から60年代前半まで、路線バス利用者はピークを迎えた、という。
路線エリアは東広島市を中心に広島市から三次市、三原市までカバー。田島悦雄取締役総務部長は「走れば利益が出た時代。バス事業の黄金期で、利用者が多くて、ドアが閉まらなかったこともあったと聞いている」と話す。
その後、モータリゼーションの進展などに伴い、利用者も徐々に減少。
コスト削減のため、1971年には、1台のバスを運転士と車掌の2人で運行していた仕事を1人で行うため、ワンマンカーを導入、生産性の向上に尽力した。
転機が訪れたのは、 広島大学の統合移転 だ。1982年から始まり、1995年に完了した統合移転は、東広島市の発展を加速化。市に人口増を呼び込み、バス利用者の増加をもたらした。
ブールバール経由の広島大学行き。広島大の統合移転はバス利用者の増加をもたらした
田島取締役は「統合移転がもたらした街のにぎわい・経済効果は、芸陽バスにとっても大きなチャンスになった」と振り返る。
90年代からは、山陽自動車道の開通に合わせ、高速道を経由する都市間高速バスの運行を次々と開始、新たな利用者の開拓に努めた。
特に91年に運行を始めた竹原市と広島市中心部を結ぶ「かぐや姫号」は、現在、12往復を維持。
他の都市間高速バスがJR山陽本線との競合で廃止に追い込まれる中、社の主力路線の一つになっている。
大崎上島や大久野島など島しょ部から広島市内に直通する利便性が、地域住民や観光客から支持を得ている要因、という。
2012年には、広島電鉄の子会社となり、広電グループの一翼を担う会社になった。社会の多様化に対応するため、旅行業や保険代理業、不動産業など新たな事業に挑み、経営の安定化を図ってきた。
それでも、「公共交通を取り巻く環境は激変している。先を見通しにくいのが実情」と田島取締役は本音を漏らす。
こうした中、昨年11月には、乗合バス事業が独占禁止法の対象外になった。つまり、乗合バス事業者間で共同経営や路線再編が可能になったのだ。
田島取締役は「地域の公共交通を守る意味でも、大きな転機になる」と目を細める。
ICT(情報通信技術)にも迅速に対応する。スマホなどを使い、利用者がバスの到着時間や待ち時間、運行状況を把握できる「バスロケーションシステム」や「バスイット」を多くの路線で導入。東広島市や広島大学などと連携し、自動運転車両の実証実験にも取り組んでいる。
「地域に必要とされ、選ばれる会社であり続けたい―」。
創業時からの思いは変わらない。
田島取締役は「公共交通事業にコツコツと取り組み、やり遂げてきたという信頼と実績が芸陽バスの最大の財産。これからも市民が利用しやすい路線バスを運行し続けたい」と力を込める。
紙屋町行きのバス(1950年ごろ撮影)。車輪のそばに社旗が掲げられている
八本松駅に停車中のバス(1952年ごろ撮影)。乗客は盆灯篭を抱えている。当時はボンネット型バスが主流だった
バスに乗車してのバスガイド研修(1965年ごろ撮影)。60年代、貸切観光バスのバスガイドは会社のイメージアップに大きく貢献した
本社のあった西条バスセンター(1982年撮影)。場所は現在の広島銀行西条支店。
1964年に完成し、当時、専用バスターミナルとしては中国地方有数の規模を誇ったが、ブールバール建設に伴い1985年、閉鎖された。
半世紀前の芸陽バスの車体デザイン。昨年、90周年事業の一環で復刻バスを走らせた
JR河内駅前を走る現在の路線バス。朝夕には多くの高校生たちが利用する。
昔も今もバスは市民の主要な交通手段だ
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投稿者名: プレスネット